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【ベルリン旅行】チェックポイントチャーリーとベルリンの壁と元ゲシュタポ本部。

2023年1月31日

チェックポイントチャーリー

ベルリンの壁の「兄弟のキス」の絵をイーストサイドギャラリーで見た後、

チェックポイントチャーリーへ行ってきました。

チェックポイントチャーリーについて

チェックポイントチャーリー
アメリカサイドから見た景色

チェックポイントチャーリーとは、ベルリンが分割統治されていた時代の国境検問所のこと。

ドイツが東西に分かれていた時代、東ドイツ側が外交官や軍関係者、外国人観光客などの東西の行き来の窓口として使われていました。

チェックポイントチャーリー
ベルリン市の4カ国の分割統治

ベルリン市の全体図を見るとこのような感じです。

第二次世界大戦に負けたドイツは、ソ連・アメリカ・フランス・イギリスの4か国に分割統治をされていました。

東ドイツ(ソ連)と西ドイツ(アメリカ・フランス・イギリス)に分けられ、

首都であったベルリン市は東ベルリンと西ベルリンに分割されます。

チェックポイントチャーリーは、アメリカとソ連の境目でした。

チェックポイントチャーリー
1961年

ここでの有名なシーンである上の写真の状態は、テレビや資料で見たことある方も多いはず。

ソ連軍とアメリカ軍が戦車を向かい合わせて、世界戦争が始まるか始まらないかの瀬戸際のシーンです。

両者の間隔はわずか100m、お互いに戦車の銃口を向けて待機している緊張感たるや…。

米ソ両軍が直接向かい合ったのはこれが初めてで、16時間の膠着状態ののち武力解除がなされました。

第三次世界大戦の勃発の可能性は回避されたのでした。

チェックポイントチャーリー
ソ連サイドから見た景色

実際にこの場に立ってみて思ったのは、なかなか狭いな、と。(建物の様子などは当時とは違うでしょうけど。)

100m先とはいえ、いつ発砲してきてもおかしくない大きな戦車たちが陣を張っているのですから、当時の現場では相当近くに感じたのではと想像します。

平常心を保つのも大変そうです。

今では復元された木造の小屋が建てられ、ソ連兵、米兵の写真が掲げられて、観光スポットとなっています。

知らずに来ていたら、そんな世界の危機があった場所だとは到底思えません。

(私が行った時にはいなかったけど、記念写真用に制服を着た人が立っているらしい)

チェックポイントチャーリー
「You are leaving the American sector」
チェックポイントチャーリー
ここから向こうはソ連サイド

ここまでがアメリカ自治区である旨の立て看板が。

故意なのか偶然なのかは知りませんが、現在では隣にケンタッキーがあり、アメリカ感が出ています。

チェックポイントチャーリー

ちなみにちなみに。

「チェックポイントチャーリー」と呼ばれているのは、

写真の人の名前が「チャーリーさんだから」というわけではありません。

アルファベットを無線等で間違いなく伝える為に、「A,B,C」のことを「アルファ、ブラボー、チャーリー」というふうに呼びますよね。

「検疫所C」つまり、「チェックポイントチャーリー」ということです。

チャーリーさんだと思ってた…!!

さて、交差点(かつての国境)を渡ってソ連サイドに移動します。

チェックポイントチャーリー

資料やベルリンの壁の一部が保存されています。

西ベルリンを取り囲むように建てられた壁の長さは155km。

3mの高さの壁の上の部分は丸く仕上げられていて、より一層登りにくくなっています。

この壁を普通の人が素早く登るのはなかなか難しいことがわかりますね…。

壁での犠牲者は調査されているだけで136人、

そのほどんどは東ベルリンから西ベルリンへの脱出を試みた人たちでした。

チェックポイントチャーリー

数多くの犠牲者のなかでも悲劇的であったのがPeter Fechter氏の件。

彼は東側から西側へ脱出しようと壁をよじ登りますが、東ドイツ兵に背中を撃たれて壁の前に落ち、身動きが取れません。

壁の前で彼は助けを求めますが、倒れたのは「death strip」と呼ばれる無人地帯。事態に気づいた群衆が「彼を助けてやれ」と求めますが、誰も立ち入ることができず、何もすることができません。

誰にも手当てされることなく、大勢が見守るなかで彼はどんどん弱っていきます。

ようやく一時間後に彼は運びだされますが、大量出血で亡くなりました。

当時18歳。

家族が住む西側へ脱出しようとしていました。

チェックポイント・チャーリー
住所:Friedrichstraße 43-45, 10117 Berlin, ドイツ
アクセス:ベルリン中央駅から地下鉄で15分くらい

ベルリンの壁について

そもそもなぜベルリンの壁が出来たのかというと、東ドイツの人々が西ドイツへ逃げないようにするためです。

というもの、東ドイツの経済状況は悪化しているのに、西ドイツ・西ベルリンは経済成長を続けており、生活ぶりの差は明らかでした。

東側にいても未来がないということで、一日に2000人の人々が西側へと国を去っていったそうです。

これ以上の人口流出を食い止めたい東ドイツ政府は、物理的に壁を造ってしまいます。

この作戦は国家機密であり、壁ができるという情報は漏れていませんでした。

そして1961年のある日突然、西ベルリンの周りにぐるりとバリケードや有刺鉄線を設置、ベルリンの街が分断されます。

その日をさかいに大勢の人々が家族や友人と引き裂かれました。

リスクを冒してでも必死に壁を越えようとする人々の気持ちにも納得です。

ブランデンブルク門
ブランデンブルク門
ブランデンブルク門
ブランデンブルク門の前にもかつて壁があった

今ではドイツ再統一の象徴に。

28年間も人々を分断し続けた壁は、

1989年、ついに「ベルリンの壁崩壊」という歴史的瞬間が訪れます。

崩壊のきっかけもまた有名な話ですが、備忘のために記載しておきますと、

移動の自由がなかった東ドイツの人々の不満はたまりにたまり、反政府デモが公然と行われるようになりました。

もうこれ以上国民を抑えることができなくなった東ドイツは、ついに「旅行許可の規制緩和」を発表することにします。

そのつもりだったのですが!

この発表会見で記者からの「いつからか?」という質問に対して、担当報道官が「直ちにだ」とうっかり答えてしまったため、

これを聞いた市民が壁に殺到、混乱と歓喜の中ハンマーやつるはしなどで壁を叩き壊して壁が崩壊したのでした。

ベルリンの壁
壁の穴
イーストサイドギャラリーはこちら

ナチスについての屋外資料

チェックポイントチャーリーから5分ほど歩くと、ナチスの歩みについての博物館があります。

実はここは、かつてゲシュタポ(秘密国家警察)の本部があった場所。

ベルリンの壁
屋根付き

この写真には写っていない左側の方に、モダンな建物があって、ナチズムの恐ろしさを現代に伝える博物館になっています。

本当は博物館の中も見学したかったのですが…ここに博物館があるとは知らず、時間を確保していませんでした。

こんな時代だからこそ過去から学ばねばと感じます。

ベルリンの壁
だれでも見学できます

時間の都合上、屋外の展示だけ見てきました。

写真とともにナチズムの流れについての展示されています。

辛くて悲しい事実を教えてくれました。

ベルリンの壁

Topographie des Terrors(テロのトポグラフィー)
住所:Niederkirchnerstraße 8, 10963 Berlin, ドイツ
入場:無料
開館日:毎日
開館時間:10-20時

ポーランドにあるアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に見学に行ったときの様子はこちらからどうぞ。↓

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おまけ:関連小説

寒い国からやってきたスパイ
『寒い国からやってきたスパイ』

冷戦時のドイツが舞台のスパイ小説『寒い国からやってきたスパイ』ジョン・ル・カレ著を友人におすすめしてもらったので、近々読みます。

ジョン・ル・カレ
1931年イギリスのドーセット州生まれ。
英国情報部に所属し、旧西ドイツでイギリス大使館の二等書記官として赴任。
1961年に小説家デビュー。
『寒い国からやってきたスパイ』は1963年発表の作品。
2020年に死去。

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